・ライフコーチワールド認定ライフコーチ
・国際コーチング連盟プロフェッショナル認定コーチ(PCC)
・米国NLPマスタープラクティショナー
1967年大阪府生まれ、兵庫県在住。
社会に必要とされる私でありたいと看護師になり、30年でおよそ8000人の命に寄り添う。若干31才で大学病院師長に就任。
スタッフ育成や他職種との対人関係問題など多忙な管理業務も加わり、1日12時間以上白衣を着るワーカーホリックな毎日を10年以上送る。
2010年介護のため退職。必要とされることでしか価値を感じられず、期待に応えようと自分を犠牲にして生きてきたと気づく。
2012年にシャンパンタワーの法則とライフコーチングに出会い、対人支援者にこそ、深く自分を理解すること、自分を満たす事が必要であると確信し、ライフコーチの道へ。
実績
看護協会関連
2013-2016 緩和ケア認定看護師養成課程「リンパ浮腫患者の看護」
2016 山口県看護協会主催 看護師リフレッシュ研修
日本がん看護学会
2006-2016 リンパ浮腫の予防に対する教育指導に資する看護師研修
看護職キャリア開発協会
自己理解講座
タイプ別コミュニケーション講座
セルフマネジメント講座
ライフコーチワールド®
2014〜継続中
ライフコーチ養成講座オンラインクラストレーナ
ジャパンストレスクリア®プロフェッショナル協会マスタートレーナー
2017~継続中
コーチ養成ベーシック講座・実践講座
コーチ養成マスター講座
自己探求コーチングスクール講師
好きなもの
- 美味しいものを食べる
- 万年筆
- キュンキュンするドラマや漫画を見ること(きのう何食べた?)
自分史
幼少期
出生から妹誕生まで
1967年2月23日17時20分。
大阪市内で第一子として誕生。
2400gとやや小さめだっため、二日ほど保育器に入っていたそうですが「鳴き声が元気だったので、心配いらないと言われた」と後に母から聞かされました。
一か月検診で、股関節脱臼が見つかり、リーメンビューゲルというベルトで3か月ぐらい補正治療を受けました。
「やっとベルトが外れて嬉しそうに足をばたばた」というコメントが着いたアルバム写真が残っています。
2歳の時に妹が誕生。
出産時に叔母(母の姉)宅に預けられた際に「迎えに来てもらうまでここにいる」玄関で泣き続け靴も脱ごうとしなかったらしく・・・
「ごんたで可愛げがなかった」と成人してからも聞かされましたが、全く記憶にありません。
家族4人で出かけた帰りにいつも妹は抱っこしてもらえるのに、私は起こされて歩かされるのが嫌で、寝たふりを試みるのですが、それでも起こされて、不機嫌さをアピールしながら歩いた記憶が強く残っています。
妹がうらやましく、そうしてもらえない自分が大事にされていない、かまってもらえない悲しみや妬みという最初のネガティブな感情体験でした。
それでも今この時期を振り返ると、裕福ではなかったけれど精一杯愛されていたんだなと思います
小学生時代
妹にやっかむことはあっても家の中ではお姫様で育っていた私。
美味しそうに食べると喜んでくれる、大きな声で歌うと褒めてもらえるもちろん、叱られた記憶もあるけれどこの世が安心安全であることを疑うことはありませんでした。
ところが、2年生で転校した私は教室で誰にも関心を寄せられない、かまってもらえない・・という衝撃の体験をします。
外では、このワタシが全く通用しないんだ!なのに、やっぱり家の中ではゆるゆると甘い扱いを受けて、世界がガラッと変わった様に感じました。
『外で通用しないと生きていけない』
『私や家族のOKは全くあてにならない』
そんな確信からこれ以降私の選択の基準は
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外の世界で通用するかどうか
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相手の反応、世間の反応、確認するのはいつもそこになりました。
外の世界で通用しない自分をどうしていいのかわからなかった頃読んだ、まんが『キャンディキャンディ』
キャンディにはいつも味方がいてくれて、ピンチな時は助けてもらい、誰かのためにがんばると喜ばれ、誰よりも愛されて大切に思われている。
「そっか・・。キャンディみたいになったらいいんや!(私も鼻ぺちゃやしそばかすあるしー)」
キャンディは、どんな人にも優しい
キャンディは、どんなときも明るい
キャンディは、看護婦さん
それで、『私、(優しくて明るい)看護婦さんになる』と宣言!
たしか、3年生だったと思います。
どう話したのか覚えてはいませんが、父にも母にも話したんでしょう。
「人様のお世話するような仕事は大変なんだから、無理やで。辞めときなさい。」と止められて
ほらやっぱり、親の言うことなんてきいてたら外で通用する私(キャンディ)になんかなれないやん何もわかってないんだから!
父と母の⭕はあてにならない口には出さなかったけど、ずっーーーとそう信じてきました。
小学校4年生の時に松田先生という大卒新任の男の先生が担任になりました 。
これが、人生の恩師との出会い、10才の私たちと 人として対等な目線で関わってくれる初めての大人、正解よりも「どう感じるか?、何を大切にするか?」という視点を教えて下さった方でした 。
毎日、生徒一人一人と交換日記 、毎日、宿題に手書きのガリ版印刷プリント1枚、チームや仲間の大切さを体験させてくれて、キャンディのような看護婦さんになりたい夢を真面目に聞いてくれました。
共に遊び、共に答えを探す そんな宝物の時間を、3年すごしました。
「ユンキー」と名付けてくれたのも松田先生、外の世界でみんなからそう呼ばれるのが大好きでした。
学校生活がキラキラすればするほど 、家族の価値が大したものじゃないように感じるようになり 、そんなそぶりは見せちゃいけない、とりあえずいい子でいようとはしていましたが・・・
すでにこの頃から 悩み事や何かを相談する対象は、父でも母でもなく 先生か友達!学校帰りはいつも友達の家に遊びに行ってました。
ただ、母の口癖だっと「ちゃんとしないと笑われるよ」という言葉は強くインプットされていて
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失敗して笑われないように 呆れられないように
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この感覚もこの後の生き方に大きく影響します。
わかっていても、ほんとに忘れ物が多かったり、授業中に空想して授業に集中できなかったりと、ちゃんとできないわたしだったのですが 笑
中学〜高校
中学時代(水泳部入部)
市内3校の小学校卒業生が集まった中学校。
転校してきた時に、存在をスルーされた体験から人一倍、仲間外れにされないように意識しながらも表面では、「キャンディのように無邪気に明るく元気に」振る舞っていました。
今思っても不思議なほどに、泳げないコンプレックスが強かった私。
毎年開催される校内水泳大会でこれがばれたら、中学生にもなって泳げないって笑われる!と思い込み、ひとり憂鬱に悩んでいました。
ちょうどその時、「泳げないあなたでも大丈夫」という水泳部の勧誘ポスターが目に留まり、これしかない!と短絡的に候補にもなかった水泳部に入部。
浮く練習から始めたのですが浮こうとしても体中に力が入り、もがいて沈むの繰り返し。
顧問は県でも屈指の水泳選手だった体育教師で選手育成にとても熱心だったので、泳げない一年生になんて興味はなく、一人隅っこで浮く練習にを繰り返していたある日・・・
もういい加減体力を使い果たし、もがけなくなった時にぷかぁーと浮いたのです、身体が。
あれ?私浮いてる!
その状態で手と足を動かすと進む!これが泳ぐってことなんだ!「私は泳げない」というセルフイメージが一瞬にして書き換わった体験でした。
そうするとまるで、自転車に乗れちゃうと、乗れなくなれないように、その後は、もう溺れられない、どうやって溺れてたのか、思い出せないことが不思議でした。
なぜか泳ぐことが楽しくなり、特に平泳ぎは合っていたのかどんどんタイムが縮まります。学校の水泳大会どころではなく、市の大会で優勝し、県大会でも決勝に残れるようになりました。
顧問の先生も目をかけてくれるようになり、練習でもしごかれまくる(泣)それでもタイムが上がると「よし!よくやった!」と褒められることがとてもうれしかったのです。
朝練も授業後の練習でも、くたくたになるまで泳ぎ、帰ったらバタンキュー。
さすがに母が心配して、「顧問の先生に一言」と言い出した時には、私の大切な外の世界を壊されてなるものか!と猛烈に抵抗して、ますます、親のやさしさに呆けていたら、やっぱり外で生きていけなくなるという思いが強固になっていきました。
県レベルになると大したことのないタイムでしたが、国体が近かったので県選抜強化メンバーの練習会にも参加していました。これがもうほんとにハードというかレベルが違いすぎて、陸上で言えば、「周回遅れ」ぐらいの落ちこぼれっぷり。
顧問の先生は県の強化監督でしたので、自分の生徒とはいえ私ごときにかまってはおられなかったと、今ではわかるのですが。
その頃の私は、先生の期待に応えられないから見捨てられているんだと本気で自分にがっかりしていました。
- 期待に応えられないとがっかりされる
- 期待に応えられないと見捨てられる
- 必要とされる存在でいなければ!
そんなビリーフがしっかり根付いた時期でした。
中学の成績は中の中 、部活の成績は決勝になんとか残れるレベル 、高校受験はいきたかったというよりは合格できる学校を選びました。
友達とも仲良くやれてましたが、一番大事な存在にはなれない淋しさや心細さ、人気者の友達への羨望など。
「私なんて中途半端で誰にとっても特別な存在ではない」という自分に対する否定感と共に過ごした時期でした。「看護婦になる」という将来の夢は全く揺らいでいなかったので、大学受験する友達を横目に、看護専門学校を何校も受験しました。
あとで母から聞かされたのですが 、父が本命の県立医科大学付属の看護専門学校の合格発表をこっそり見に行って、「裕美子受かってたぞ」と喜んでいてくれたそう。
私からみると、友人もいない、趣味と言えばテレビでジャイアンツを応援することぐらいという、狭い小さな世界で生きている父。
この頃、母はともかく父とは挨拶を交わす程度の関係性で 悩み相談や今の気持ちなど、本音のコミュニケーションを一度もした記憶がありません。
2才年下の妹は、自分の意見をはっきり言うタイプで親とよくぶつかっていました 。私は、親の事を対等でもなく「大したことないかわいそうな存在」と思っていました。
もっと言えば、私の目指す、社会の期待に応えるような生き方をしている人達ではないと見下してさえいたのかもしれません。
私たち姉妹を制限なく育てようと、ピアノ、習字、スイミングなどのやりたい希望はほとんどかなえてもらい、洋裁士だった母にたくさんの洋服を当たり前のように創ってもらい、懸命に働いてくれていた事は、当たり前レベルで受け取っていたくせに・・・
今思うと、なんて傲慢な子供だったんだろうと恥ずかしくなります。
看護学校時代
看護専門学校時代
小学3年生で宣言したとおり看護婦になるために、3年過程で大学病院の付属看護学校に入学しました。他府県からきている生徒も多く、寮や近隣のアパート、マンションに一人暮らしする同級生が随分大人に思えたのを覚えています。
スイミングスクールや病院で看護補助のバイト始めたり、バスケットボール部に入ったりと、ぐっと外の世界で過ごすことが多くなりました。
専門科目ごとのテストや実習などカリキュラムは盛りだくさん。なんとか落第せずについていく事にも必死で、刺激的で充実した日々でした。
看護学校では今はほとんど見かけなくなったナースキャップを戴帽する「戴帽式」という儀式があり、それがクリアできると、病棟実習に出ます。
1年生が体験する基礎実習と呼ばれる初めての病棟実習はできる技術も限られていて、
- バイタル測定と呼ばれる、血圧や脈拍を観察すること
- ベッドや療養環境を整える事そして患者さんとのコミュニケーション
の2つでした。
もう30年以上も前の、たった1日の事ですが、鮮明に覚えています。
受け持ったのは50代男性の患者様。同年代の父とは、あいさつとジャイアンツが勝った負けたぐらいしか話さない私にとって、その方とのコミュニケーションは試練のような気持ちでした。
それでも、逆に気を使って「どんな勉強しているの?」などと話題を振って下さり、よしよし会話できた!と嬉しく実習記録に書いて提出すると
”コミュニケーションはただの雑談ではありません”
と実習指導者さんから赤ペンコメントがついていて自分の浅はかさと看護の難しさ、不安、緊張、怖さ、情けなさ、歓び、楽しさ、あらゆる感情を味わった一日でした。
てきぱきと仕事をこなしていく、先輩看護師たちをかっこいいなと思ったり。厳しい指導者さんにびくびくしたり、毎日が、緊張と感動の連続だったように記憶しています。
ある病棟で、夜眠れないとおっしゃる受け持ち患者様にぐっすり眠って頂きたいと、眠前に足浴を思いつき、計画を患者様にお伝えしました。
とても喜んで下さり、意気揚々と看護師に発表したところ、夜勤の状況もわからないで、自分ができないことを「やってください」というのは全く持って無責任だとコンコンと叱られたことがあります。
患者さんをぬか喜びさせたことがいたたまれず
「私が眠前に来てやります」などとムキになって発言したものですから、そういう問題ではない、もっと広く深い視点でとらえるようにと指導されました。
その時は「患者さんにとっていい事なのに、看護師の都合でやってもらえない」と私の患者さんを想う気持ちを理解してもらえなかったという気持ちでいっぱいです。
そして、正義感と被害者意識で明日から本気で行きたくないと悩んだりもしました。今思えば、独りよがりこの上ないエピソードですが未熟で必死だったころの自分をバカでかわいいと思えます。
途中で成人を迎え、恋愛も経験し、国家試験、専門学校卒業と外の世界での経験値が大幅に増えすっかり大人になった気分でいました。
この時期に、認知症と身体衰弱で入院していた母方の祖母が亡くなりました。女手一つで7人の子供を育て上げた祖母は厳しい人だったそうですが私と妹にとっては、お小遣いをくれる優しいおばあちゃんでした。
私のことなどすっかり忘れ、私を母の名前で呼んだり大声で怒鳴ったり看護学で学んだ「認知症」という信じがたいリアルと共に、初めて体験する身近な人の臨終でした。
看護師~看護師長
coming soon